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INTERVIEW
これは「自分が買わなかったら、
買う人いないよな」と思って
宮城教育大学 教育学部 准教授 山内明美 さん
聞き手:前野久美子・武田こうじ(Book! Book! Sendai)
写真:和泉求(Photo&Design IZUMIYA)

Book! Book! Sendaiでは、人と「本」がどのように出会い、「本」がその人の暮らしの中で、どのように存在してきたのか、さまざまな人と本棚を訪ねて、お話を聞くシリーズを始めます。

本屋で、図書館で、古本市で、インターネットで、本がだれかの元へたどり着いてからどのような時間が流れていったのか。あるいは、その後どこかへ行ってしまったのか。そんな「本の明け暮れ」についての語りを集めたら、人や街の生活史が見えてくるのではないかと考えました。それを「せんだい本の生活史」と名付けて、インタビューをおこなっていきます。

第一回は宮城教育大学教育学部准教授、『痛みの〈東北〉論』(青土社)の著者山内明美さんにお話を聞いてきました。本との出会い、どうして本を読みたいと思ったのか。また、山内さんの人生とどのように本がかかわってきたのか、そんなお話を語っていただきました。

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最初はのんたんシリーズでした。東京に住んでいた叔母が毎月一冊ずつ送ってくれたんです。 すべて初版です。それから、小学生の頃は、ギリシャ神話が好きでした。きっかけは、子供用に翻訳された『星のオルフェウス』というタイトルの本で 、サンリオが出版したものでした。絵がかわいかったのを覚えています。

それがきっかけで、世界の神話も読むようになりました。 『日本書紀』や『古事記』も漫画で読みました。 小学校2年くらいの時に、親が『グリム・イソップ・アンデルセン』の童話全集20巻を買ってくれて、それは 何十回、いや百回以上読んだと思います。物語が好きでした。

わたしは志津川町のさらに辺境地の入谷出身なのですが、子どもが歩いていける範囲に本屋はありませんでした。今もです。町の中心地に行けば、当時は白ゆり書店、文泉堂書店、 あと朝緑商店(文房具屋さんだけど本も少し置いていた)の3つの本屋さんがありました。しかし、東日本大震災以後は、すべてなくなりました。幼少期で覚えているのは、同い年のいとこが毎月『りぼん』を読んでいたことです。身近に本屋がない自分にはとても贅沢なことに思えて羨ましかったのを覚えています。いとこは、少女漫画オタクでした。 同い年なんだけど、言葉が巧みというか。少女漫画の世界って結構深いじゃないですか。 それを読んで、物を考えているんだろうな、みたいな子でした。 私は そういうものに触れることがなかったので、 子供心に劣等感があったのを覚えています。 いとこには自分にないものがある、というか。幼稚園くらいの時ですよ。年賀状が送られてくると、 彼女の年賀状には、 アルファベットで「 Happy New Year」って書いてあるんですよ。漫画の絵と一緒に。 そういう時に、“アツ”を感じていました。 最初のライバルでしたね。 漫画読めるって羨ましいなって思いました。 小学校中学年くらいになると同級生も、『少年ジャンプ』とかを学校に持ってきて、みんなで読んでいました。たまに貸してもらって「ジョジョの奇妙な冒険」とか読むんですけれど、ジョジョには独特の世界観があるようで、どうしてこんなに難しい漫画を理解できるのだろうと、また劣等感です。(笑)

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家にあったのは『グリム・イソップ・アンデルセン』の全集や絵本、あとは父親の百科事典が置いてありました。それにもちょっと思い出があります。 愛鳥週間に鳥の絵を描く、という課題が小学一年生の夏休みの宿題にだされて、なにを描けばいいのだろうと悩んでいたら、 父親が百科事典を持ってきたんです。「アヒルがいいよ」っていうんです。今思えば、 百科事典の第1巻アイウエオの「ア」の項目にある 鳥ですよね。そのアヒルの写真を示して「黄色と白色で描けるじゃないか」みたいな感じだったんです。それで描いたら、とても上手く描けたの。 で、学校に自信満々で持っていったら、 人だかりができて「なんでアヒルを描いているの?」って言われて非難轟々になりました。「愛鳥週間だから野生の鳥じゃなきゃいけない」「家の中で飼われているアヒルではおかしい」と。自信を失いましたね。 泣きながら家に帰りました。 いまも、百科事典を見ると思い出します。 「あの百科事典め」いや「オヤジめっ」って。(笑)

あと本との出会いでいえば、学校の図書室になりますね。 4年生から6年生までずっと図書委員でした。 図書委員はいつでも図書室に出入りできるという理由だけでしたね。本棚のある部屋がとても好きです。小学6年生の時は、椎名誠さんの冒険や旅の話が好きで、 椎名さんにはファンレターを書いたこともあります。お返事をもらって、宝物にしていたのですが、今はどこへ行ったのかなぁ。それから、「全国学校図書館協議会選定図書」というのが毎年選定図書としてリストアップされるのですが、新刊本を読むのが楽しみでした。私たちが子どもの頃はミヒャエル・エンデが全盛の頃でしたから『はてしない物語』、『モモ』も図書館で借りて読みました。物語もですけれど、挿絵が好きでした。

それと小学校5年のころに村上春樹の『ノルウェーの森』(講談社,1987)がベストセラーになって、テレビで毎週話題になっていました。緑と赤のクリスマスカラーの上下巻装丁にも魅かれて「洒落ているな。 大人の本、読んでみたいな」と思ったんです。もちろん小学校の図書館にはなかったから、 町の図書館に行きました。何度行っても貸出中でした。3回目くらいで、やっと見つけてカウンターへ持って行ったら、司書の男性が「これは大人が読む本だからね。あっちの本にしなさい」と言われて。ガックシ。それで代わりに借りたのが『ビルマの竪琴』だったんです。 お目当ての『ノルウェイの森』は借りられず、しょぼくれて帰ったものの『ビルマの竪琴』を、涙を流しながら読んだという思い出もあります。今でも覚えています「水島!一緒に帰ろう」って呼びかけたけれど、水島は、戦死した友だちの供養をするために戦地に残ったんですね。
中学生から高校にかけて村上春樹、村上龍(当時はW村上と呼ばれた)の一連の作品を読むようになっていました。そういえば、小学一年生時に、担任の先生が絵本をプレゼントしてくれたんです。 それは『ねむいねむいねずみ』で、その絵が大好きでした。佐々木マキさんです。そこから村上春樹作品の「羊男」にも繋がっていますね。いまでも『ねむいねむいねずみ』は大好きです。

高校から大学への端境期は、サリンジャーと寺山修司でした。高校3年間の夏休みの読書感想文は、サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』で書きました。白水社の白水Uブックスにはこの頃からお世話になっています。それと、幻想文学が好きになりイタロ・カルヴィーノの『木のぼり男爵』を1冊丸ごと4時間くらい風呂読みした記憶があります。カルヴィーノは本当に好きです。アントニオ・タブッキもUブックスから出ています。この辺りは、子どもの頃にグリム童話の読書体験から枝分かれしているような気がします。澁澤龍彦も読んでいました。
高校の執行部のなかに報道出版局というのがありました。志津川高校には『旭朋』という学校誌があって、学校新聞の他に年に1回『旭朋』を出版するのが報道出版局の仕事でした。そこで、私は局長をしていました。教員や生徒の原稿を集めて、印刷会社の人と打ち合わせをしながら編集・構成するという作業工程ですが、 そこから、 出版やマスコミ関係に興味が出てきました。あの頃は、将来は雑誌の編集者や新聞記者になりたいと漠然と思っていました。しかし、 自分が何をやりたいのか、何になりたいのか、っていうのは、 なかなか決まらなかったんです。
歴史の見方だとか、新しい科学の話とか、 そういうことには興味があったけれど、 少なくとも自分は理系じゃない。 だからって文学部に行くっていう感じでもなかった。自分が 何をやりたいのかに悩んでいました。高校を卒業後に南三陸町入谷の『ひころの里』という古民家を保存した民俗資料館や町立図書館で臨時職員として働きました。私は、高校卒業してから6年ほど働いて、それから大学へ進学をしたんです。
寺山修司は、最初は俳句や小説ではなく、評論集から入りました。たまたま志津川図書館で、寺山の『身体を読む』という対談集を見つけて、2、3ページめくって面白そうだなと思ったんです。寺山の主張には根底に「標準を疑え」というメッセージがありますよね。20代前半までは、 寺山修司で埋め尽くされましたね。そこからミシェル・フーコーとか、 ジョルジュ・バタイユとか、アルトーとか思想・哲学の本も手にとるようになりました。高校卒業した頃に、はじめて自分のお金で全集を買ったんです。それはジョルジュ・バタイユの全集でした。しかも、 佐沼の本屋で。 驚くべきことに、ジョルジュ・バタイユの全集が佐沼の本屋さんにあったんです。 これは「自分が買わなかったら、買う人いないよな」と思って、2万円くらいしたと思うんですが、 思い切って買いました。

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本に対する飢えというのは常にありました。臨時職員しながら、ほんの時々、空っぽのリュックを背負って神田の神保町へ古書巡りするのも好きでした。
太宰治の全集とか、すごい安いので、2、3千円で買えちゃうみたいな。それで全部読んで、 あと中上健次が好きで、新しい本で全集を買いました。 けっこう、いい値段で、 学生になってから、お金がなかった時に売ってしまいました。 売ってしまって、手放してしまって、激しく後悔しました。この頃は乱読期ですが、カフカ、小説は中上健二もそうなんですが、大江健三郎の『同時代ゲーム』に惹かれて、何でしょうね、あの二重記述というか物語の重なり合いに衝撃を受けました。
研究生活以前で、一番読書をしていた時期は20代の前半ぐらいです。 私が志津川町の実家にいた時は 、隣の旧気仙沼の津谷の図書館が、ラインナップが良くて、毎週通っていましたね。

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それから、先ほどの「ひころの里」という民俗資料館で働いていた時期に、柳田国男をまとめて読みました。 柳田の全集が事務所の書棚にあったんです。
いま思えば、最高の仕事場でした。本当に暇で暇で仕方がなかったんです。特に冬は、来館者がほとんど来ない。一人も来ない日もありました。 博物館施設というのは赤字経営ですけれども、毎年議会で「ひころの里」の財政負担について職員が答弁する、というような感じでした。 現在は指定管理になっていますが、 当時は町役場が直轄運営していました。郷土史研究家の おじいちゃん所長と二人だけの仕事場でした。所長の昔語りを聞いて勉強する、とても良い機会でした。事務所の書棚にあった柳田国男全集と民俗学の論文をこの頃は読んでいました。当時は、気仙沼市教育委員会で学芸員をしておられた川島秀一さんの論文の抜き刷りもここで読みました。川島さんの論文があまりに面白かったので、会いに行ったこともありました。
この時期に「民俗学」というものが世の中にあることを知りました。ちょうど1999年で、東北芸術工科大学から『東北学』が創刊された頃でした。 それで、芸工大で市民講座みたいのがあると知って、山形に講座を聞きに行きに通うようになっていました。 また、そのちょっと前に、マッキントッシュのパソコンが販売されて。普及版のiMacです。 さらに世の中では、インターネットが繋がるようになっていました。 イラストレーターとフォトショップを使って、家庭でもD T Pができるようになっていました。 この頃、「ひころの里」の入館者の少なさに課題も感じていて、さらに私の母校の小学校が閉校になったことなども重なり、地域の衰退を切実に感じるようになっていて、元々編集に興味があった私は、地域雑誌を作ってみようと思い立ちました。自分で記事を書いて、雑誌を1冊作ったんです。 それが、ちょうど2000年。パソコンの勉強を始めてから、2、3年かかったのかな。 『人力空間』っていう雑誌を作ったんです。

松岡正剛さんのWeb上の編集学校があって、 それも第一期生に入っていました。インターネットが繋がって、メールのやり取りができて、DTPができてみたいな、そういう走りの時代だったんです。 それで、『人力空間』を出しました。 100部くらい印刷したのかな。 アルプスという会社のカラーコピーできるプリンターが販売されて、全色カラーで手製本した本でした。
あの頃は、森まゆみさんの『谷中・根津・千駄木』という雑誌に憧れていました。東京に行くたびに谷中を訪ねて購入していました。ただ、 南三陸で作るには農漁業の風景を載せたいので、カラーで作りたいと思っていて。 あ、これです。 これが、私が最初に試作で作った『人力空間』です。

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(本をめくりながら)
いま見ると恥ずかしいですけど、その時はイラストレーターとかフォトショップを使えるようになって、やっと自分で作れたなと思って。

これは、南三陸町のネイチャーセンターに横浜康嗣さんという海藻研究の海洋学者がいたんです。南三陸町は、財政が厳しいけれども、非常勤の研究者を雇用しています。あとはカズマさん。 海の話を取材しました。25年前のお話です。この写真の囲炉裏は「潮だまり」という名前がついていたのですが、2011年の津波で流されました。

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(星の写真を見ながら)
長時間露光したものです。 写真は、河北新報の志津川町支局にいた記者の方に教えてもらったんです。懐かしい。 綺麗ですね。 夜も撮りに行っていました。1年間いろんな写真を撮りました。あとは地域の昔話も掲載しました。本を読んで勉強しました。 入谷の古文書の話を一人の地元のおじいちゃんに教えてもらいました。 記者の方が撮ってくれた写真もありますね。稲刈りの時の景色。

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(裏表紙を見ながら)
大雄寺というお寺の地獄絵ですね。アルプスの印刷がインクリボンで、シルバーとかゴールドとかも印刷できる。高いけど、それが面白くてシルバーのインクを使いました。
この雑誌を作る過程で、志津川の印刷会社で見積もりを聞いたら、全部カラーだと100冊で100万円かかると言われて、 それは厳しいから、パソコンを買って、自分でやるしかないと。給料を全部つぎこんで、「ひころの里」 で働きながら、作りました。

『東北学』の赤坂憲雄さんに一冊あげたら、「もう一冊作れ」と言われて、 奨学金をもらったんです。 その時は大学一年生になっていたんですけど、 30万円もらって、もう一冊、大和町の本を作ったんです。宮床に行って、おじいさんにお話を聞いたり、七つ森にも全部登りました。“七薬師掛け”も自分でやってみて。 頂上の石仏の写真も7枚撮って。志津川と大和町の2つの雑誌をつくって、休刊となっています。笑。
「ひころの里」の後に、町立図書館で司書補として3年ほど勤務しました。
図書館で働いていた時の最大の楽しみは、年2回、日販とトーハンに選書をしに行くことでした。
町の人たちがリクエストしてくれた本の多くは、歴史小説やベストセラーの売れ筋の本です。まずは、町民の要望に沿って選書をしていきます。図書館に配下できる本って限られるのですが、それらをまとめて購入するんです。哲学の本を1冊入れたら、「これは読む人がいないからダメ」と言われたり。残念…。本を買うお金は、毎年200万円だったかな、当時は。今はもっと少ないかもしれない。
日販もトーハンも体育館のように巨大な倉庫で、そこに膨大な量の本が並んでいるんです。そこから予算100万円分の本を館長さんと司書さんと私で選ぶのが仕事です。夢みたいでしたね。

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本に関しては、Kindleも持っていますが、 Kindleで買うのは急ぎで情報が欲しいときに限っています。 やはり線を引いて読みたいので、紙で読みます。
赤鉛筆か青鉛筆で線を引く。付箋も使いますが、古い本だと剥がす時に傷がつくので、用心ですね。カバーも帯も付けたままで書棚に並んでいます。 帯がどんどん折れてきて、もうボロボロだから、しおりがわりにしようかなと思ったり。
大学で使う本、研究で使う本は、古書が多いですね。 明治とか大正とかの資料を使うこともあるので、そういうものは古書店で購入します。
このところネット通販になってしまっていますが、やっぱり本屋に足を運ぶと発見が多いです。ずっと言われていることですが、データベースで引っ張るのと、図書館や書店の本棚の前に行くのでは、収集できる情報の質が違うと思います。ネットはタイトルとキーワードでしか引けないのですよね。そうなると本当に限られた情報しか分からない。2000年代頃から、学術研究の質が、とりわけ人文研究で変化したと言われています。ネット検索で資料調達するようになったからではないかと言われています。web検索では拾えない資料がたくさんあり、またwebに掲載された情報だけで論文が書かれる時代になりつつあります。A Iの時代はこの状況が加速化すると思います。わざわざ重たい本棚を所有したり、古書店や図書館の収蔵庫に籠るのは、周辺の本棚の並びとかを、一通り見ることが大切だからです。
それから、私は疲れたり、ちょっとしんどいなと思うときは、林竹二先生の収蔵庫へ籠るんです。ちょっとカビ臭い感じもあるのですが、晩年は田中正造のご研究をされていましたが、所蔵本の中に林先生のメモや走り書きがあったりしますよね。そういうのを見ると、とりあえず、もう少しここで頑張ってみてもいいかなと思えるんですよね。

振り返って話をしてみると、私が子供の時は、情報を得られるものはテレビ以外だと、本しかなかったんですね。小学生6年になると、土日にバスに乗って一人で町に行く方法を知りました。そうやって初めて、図書館に通う方法を見つけました。本を読むと、自分のなかの新しいなにかを開拓できたみたいなところがあって、それが楽しみでした。
いまは、南三陸町入谷に「日月羊(ひつきよう)works lab.」という拠点を作りました。毎日オープンできるわけではないのですが、火星の庭みたいに月例の読書会をやりたいなと思っています。

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