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INTERVIEW
今のウクライナでも
戦争についての小説がうまれています。
けれど、もっとも重要な小説が
出てくるのはこれからだと思います。
東北大学大学院 文学研究科
日本文学研究室 後期博士課程4年生
マリヤ・クラヴェツさん

「せんだい本の生活史」は人と本がどのようにして出会い、その後どのように読まれていったのか、「本の道のり」をたずねるインタビューシリーズです。第10回目は、ウクライナ人のマリヤ・クラヴェツさんにお話を聞きました。
マリヤさんは東北大学で日本文学の研究をされています。仙台に来たのは2022年の夏。ロシアによるウクライナ侵攻を受け、東北大学が学習や研究の継続が困難な状況にあるウクライナの学生と研究者の支援を立ち上げたことを機に、客員研究員として来日しました。「せんだい本の生活史」の準備をしていた一年前、この人の話をぜひ聞きたいと思い浮んだお一人がマリヤさんでした。マリヤさんとの対話は想像以上に「人と本の関係」を考えさせられる体験になりました。

話が長くなるのですが、マリヤさんとの出会いは、2022年の5月頃にたまたま東北大学のサイトでウクライナ支援募金を見つけて、わずかですが寄付をしたことがきっかけです。ちょうどその頃、自営しているお店で蔵書票展を開催しており、展示作品にはウクライナ出身の版画家の作品がたくんありました。お客様が「ウクライナ出身の画家だから」と言って買って行かれるのをみて、作品の売り上げはウクライナ支援に役立てててもらおうと思い寄付先を探していたときに、東北大学のウクライナ募金を見つけました。
その秋に、東北大学の国際的なイベントへお誘いがあって本の販売で出店しました。その時、ウクライナ支援の担当者の方からマリヤさんをご紹介いただいて初めてお会いしました。日本語が堪能なマリヤさんとは同じ文学好きということもあって、その後もおつき合いが続いています。でもこんなにじっくりお話を聞いたのは今回が初めてです。子ども時代のこと、読んできた本のこと、戦争が起きてからの変化、とても大切なお話をしてくださいました。少し長いですが、ゆっくり読んでいただければと思います。(Book! Book! Sendai/前野久美子)

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わたしはクリミア半島のパルテニトという小さな街で生まれました。1988年に生まれた当時は、クリミア半島もウクライナもソ連でした。2歳ごろから記憶があって、海の思い出とか、幼稚園が好きじゃなかったことを覚えています。母は幼稚園の先生をしていたので、仕方なく幼稚園に行きました。わたしの弟はウクライナが独立してから生まれたのでウクライナ生まれです。90年代のウクライナは本当に困難な時期でした。ソ連崩壊の後で仕事もなかったですし。
3歳の時にウクライナ中央部の都市に引っ越した後は幼稚園には行きませんでした。母は本が好きで家にはたくさん本がありました。でも子どもの頃は絵本を読むより、昔話を子守唄のかわりにたくさん聞きました。ウクライナは民話がとても多いです。おばあちゃんのところにいって、「おばあちゃん昔ばなししてー」とお願いして語ってもらいました。おばあちゃんは声を変えたり、パフォーマンスしたり、歌を歌ったり、いつもおもしろかったです。ウクライナの民話は動物の話が多いんです。熊とか、馬とか、うさぎとか、本に出てくる動物の鳴き声を真似して読んでくれました。なので、まず読むよりも聞くことからお話に出会いました。父もよく本を読んでくれました。本が読めるようになってからも、自分で読むより読み聞かせの方が楽しみでした。ウクライナはお金持ちの国ではないこともあって、子どもの教育に熱心です。より良い生活のチャンスとして教育を捉えていたのです。
毎日家で本を読んでいる子どもでした。最初の本の記憶は、『オズの魔法使い』です。登場人物が成長していくところがいいなと思います。脳がない「かかし」は賢くなって、心がない「きこり」は優しくなって、勇気がないライオンは自信を持つようになります。読んだのは、たしか小学生前でした。グリム童話やアンデルセン童話も好きでした。とくに好きなのが『白鳥の王子』です。わたしは4歳から字を読むことができました。話すのはどちらもできたのですが、最初はロシア語で読み書きを覚えて、ウクライナ語は小学校へ入ってから読み書きできるようになりました。家ではおばあちゃんが「スルジク」で話していました。そういう複雑な事情があって、わたしは学校へ行くのがすごく怖かったんです。けれど家から一番近い学校へ仕方なく行きました。

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この本(『シェフチェンコ詩集』岩波文庫)は19世紀の作家の本です。この頃からウクライナ語は環境や時代の影響を受けて変化してきました。2022年の戦争以降も新たな言葉がたくさん発生しています。わたしのおばあちゃんは田舎の村に生まれてウクライナ語で育ちましたが、その後引っ越した都会はソ連の影響が強く、ロシア語が話されていました。するとおばあちゃんはウクライナ語とロシア語がミックスした「スルジク」という言葉を話すようになりました。その頃、ウクライナ語は田舎の言葉と思われていました。日本の方言に近いかもしれません。ウクライナ語とロシア語は似ているといっても違いますから、すぐに話せない。「スルジク」はウクライナ語からロシア語に変わるときに起きた現象です。が、今は逆にロシア語からウクライナ語に戻そうという動きが起きています。もちろん、すぐには変われないですが。わたしもウクライナで大学の講義をしていたときは授業はウクラナイ語で行い、日常ではロシア語とウクライナ語のミックスになります。言語というのはスポンジみたいです。

11歳くらいになると詩を書き始めました。ウクライナでは小学生の頃から読書の授業で詩を読んだり、暗記して皆んなの前で朗読をします。中学、高校の文学の授業でもそうです。それは詩がウクライナ人にとってとても大切なものだからです。たとえば詩人のシェフチェンコの銅像はどんな小さな街にもあります。彼の詩にはウクライナ人の闘い、社会で疎外されている人たちへの差別、貧しい人、レイプされた女性のこと、苦しみを持っている人について書かれています。小さい頃から彼の詩を暗記しているので、大人になってからも彼の詩はことわざや慣用句のように口にします。
レーシャ・ウクライーンカもうそうです。彼女は14歳から詩を書いていたので、子どもや10代の声が詩にでてきます。その詩の一節は日常でもよく使われています。たとえば、「泣かないように笑いました」という言葉です。たった今もウクライナでは戦争が起きています。だから「泣かないように笑いました」という言葉をよく言っています。どんなに悲しくても微笑むチャンス、笑えるきっかけを見つけられたらいいねという意味です。この岩波文庫版の『シェフチェンコ詩集』は日本に来てから見つけました。2022年10月発行なので戦争の後に発行されたものです。

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もともとウクライナという言葉は16世紀から歴史書に登場します。ロシア帝国の一部の時もあったしソ連だったときもありました。ですが、今でもウクライナ語が存在し、ウクライナ文化があります。ウクライナがなくなったことは一度もないです。
ソ連の時代は本屋がほとんどなく、本を買うのがむずかしかった。後から母に聞いたことですけど、その頃は古新聞をどこかへ持って行って、本に交換していたそうです。家にあった本は小説や詩集が多かったです。子どもの本もたくさんありました。昔はすべての本がロシアから輸入されていました。ウクライナ語の本はほとんどありませんでしたが、少しずつウクライナ語の本が増えていきました。今のウクライナには本屋がいっぱいあり出版社も多く、綺麗なデザインの本もたくさん出ていて、ウクライナ語で世界中の本が読めるようになりました。ウクライナは文学が盛んな土地です。ただ、ほとんど翻訳されていないから知られていません。

最初の小説の記憶は、中学生のときに読んだ『レ・ミゼラブル』 です。年齢的に少し早かったけど、女性がでてくるので母が「読んでみたら」とすすめてくれました。フランスの革命時代の話かぁ、女性の登場人物はどこ?って思いながら読み終えました。母は今でも毎日図書館へ通っているくらい本が好きです。妻がそうなので父もよく読んでいます。
大学生になると日本文学をはじめ世界文学を読むようになりました。今は東北大学で日本文学を研究しています。もともと言語に興味があって外国語を勉強したいと思っていました。日本文学は日本語を研究していく上で読むようになったという感じです。
日本に来る前はウクライナの大学で近代日本文学を教えていました。他に翻訳についての講義もしていました。たとえば、この小川洋子さんの『涙売り』という短編小説を学生たちと一緒に翻訳しました。日本語の美しさと難しさがよく理解できる作品だと思います。『涙売り』は学生たちにとても人気がありました。主人公は「わたし」ですが、最後までジェンダーがわからない。また、いろいろなタイプの話し言葉、手紙などの書き言葉、そういったさまざまな言語表現について書かれてあります。小川洋子さんの特徴である、身体に関わる表現も学生たちと読み解いていきました。また、楽器などたくさんの固有名詞について、「それをウクライナ語でどのように翻訳しますか?」と学生たちに聞いたり。彼らにとっては難しい部分がいっぱいあったと思います。ウクライナ語にはそれぞれの言葉にジェンダーがあります。ですが、日本語にはありませんので、翻訳する時にジェンダーを付け加えなければならない。そこがとくにむずかしいです。

日本文学で最初に感動したのは芥川龍之介です。代表的な作品はすべて読みました。大学の先生に「もし日本文学を読んだことがないなら芥川龍之介を読むといい。好きになると思う」とすすめられたんです。その後、大学二年生のときに芥川龍之介の作品に登場する死のイメージについて論文を書きました。わたしはうつ病の傾向がありますから、とても好きになりました。主人公の内面に深く入っていく、そういうところがとても魅力があります。初めはロシア語で日本文学を読んでいましたが、今は日本の本がたくさんウクライナ語に翻訳されています。村上春樹を初めて読んだのはウクライナ語の『羊をめぐる冒険』です。
ほかには松尾芭蕉の俳句を勉強しました。あと、石川啄木の短歌も読みました。中学生のときに授業の課題で俳句をつくりました。もちろんウクライナ語で。めずらしいスタイルだなと思いましたね。俳句は自然観察ですが、わたしがつくったのは自然と哲学を合わせたものでした。人生の意味とか。もともと俳句にもありますね。「もののあわれ」とか「わびさび」とか。桜が散るように人生は短いと伝えてみたいと思いました。

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日本にはすぐ行きたいとは思っていませんでした。自分がこういう状況になるなんて想像もできませんでした。もちろん、日本語を勉強していたので最終的には通訳者か翻訳家、日本語の講師の仕事ができるかなと思っていました。それで大学を出た後は修士課程に進んで、大学の教師になりました。
大学で教え始めたのが2014年です。そこから5年経って2019年に初めて日本に来ました。日本語の教師になるための研修だったのですが、埼玉県に6週間滞在しました。他の国からの日本語教師と一緒に交流しながら、日本語、日本文化、日本の社会事情の教え方についての講義を受けました。滞在していたのは北浦和です。週末は東京や近くの大宮へ出かけて行きました。そのとき、日本はややこしいことが多いなと思いました。エスカレーターは左側に立つとか、順番に並ぶとか、ルールがいっぱいある。だからウクライナに帰った時はほっとしました。自由です!イギリス人の友達がウクライナに来た時に「ウクライナに来ると生きているという実感を深く感じる」と言っていました。
どうしてそうなのかわかりませんが、ウクライナには自由な空気とたくましさがあるのだと思います。
ただ、今のウクライナ人の生活は、安心して眠っていられない日々です。だからこそ、朝起きてなるべく綺麗な服を着て化粧をして、できるだけ気持ちを明るくします。さきほどの詩人の言葉のように悲しい顔じゃなくて笑った顔でいる。もちろん、戦争が始まった時は悲しいことがいっぱいありました。でもすぐ冗談とかボケる言葉が生まれました。もしかしてユーモアの戦争だったらウクライナ人は負けないでしょう。冗談がとてもうまいです。もしウクライナ人がユーモアのある人たちでなかったら戦争もすぐ負けていたかもしれません。

日本に行くまでは、日本文化については日本人じゃないので教えることはできないと思っていました。研修を受けて浴衣の着付けを覚えました。埼玉のリサイクルショップで古着の浴衣を何枚か買ってウクライナに持ち帰って、学生たちとお祭りのときに着ました。大学には日本人の先生はいなかったので、少しでも日本の文化を紹介したいと思いました。箸も上手に使えますよ。もともと細かいことをするのが得意です。ビーズ細工とか、刺繍も趣味です。このペトリキウカ塗も描きました。
*ペトリキウカ塗:ウクライナ東部ドニプロ地区にあるペトリキウカ村で生まれた伝統的な民俗装飾芸術。2013年にはユネスコの無形文化遺産に登録された。下記画像のペトリキウカ塗はマリヤさんが仙台に来てから描いたもの(book cafe 火星の庭蔵)

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子どもの頃は主人公が女性のお話を読んできたけれど、大人になって研究で読んでいる日本文学は男性が主人公のマチズモなものが多いです。村上龍の『コインロッカーベイビーズ』読んだ時は驚きました。それまでも日本文学を読んでいたけれど、まったく違うという印象を持ちました。

今研究している『69 sixty nine』は、アイロニー的な部分がたくさんあるのでかなり楽しいです。この作品には米軍基地がでてきますね。この基地の描写を読んだとき、わたしがクリミア半島でロシアに対して感じていたことと似ていると思いました。船や港があって、首都から遠いところとか。佐世保も東京から離れていますよね。基地があることでアメリカの方が近くに感じる。そういう観点から見るとわたしにとってこの作品は身近に感じます。こういう反植民地的な観点から研究したいと思っています。もちろん、植民地主義はどんな国でもメカニズムが似ていると思います。村上龍の小説ははじめは気がつかなかったけれど、政治的なことがけっこう書かれています。好きな作家とはいえないですが、研究対象としてはおもしろいです。
今は村上龍で論文を書こうと思っています。去年は2回、シンポジウムで発表しました。そのときは「村上龍とサリンジャーの比較」がテーマでした。今は日本文学へのアメリカの影響やイメージを研究してみたいと思っています。たとえば、村上龍の『69 sixty nine』、小島信夫の『アメリカン・スクール』、野坂昭如の『アメリカひじき』を読んでいますけど、どれもアメリカとの距離がモチーフの小説です。小島信夫の『アメリカン・スクール』には基地まで歩く先生たちのシーンが出てきます。そこでは基地へ行くことは辛く、苦しいこととして書かれていますが、村上龍の小説の場合は、基地に行くのは簡単、近いというイメージがある。アメリカとの関係、見方、影響の受け方が時代によって違うし、いる場所によっても変わることがわかります。
小島信夫や野坂昭如は村上龍より前の世代で、アメリカは戦勝国の占領者として巨大な力を持つ存在として見えている。けれど村上龍の世代はそれよりももっと自分との距離が近しい。こういう大国との距離について、文学の観点から研究していきたいです。
ある大きな出来事について表すときに、ジャーナリスティックな視点ではなく、文学からアプローチをする場合の大きな特徴は「時間の距離」だと思います。『69 sixty nine』という小説は1987年に出版されました。小島信夫の『アメリカン・スクール』は1948年が舞台ですが出版されたのは1954年です。文学というのは時間をかけてできているので、起きた事実そのものに加えて、別の解釈やより深い心情を表すことができるのだと思います。

今のウクライナでも戦争についての小説がうまれています。けれど、もっとも重要な小説が出てくるのはこれからだと思います。もう少し時間と距離が必要です。言葉というのはショックを受けたその瞬間にはすぐ表すことができない。10年、20年とかかかります。
たとえば、わたしが大学で日本文学を教え始めた2014年ごろは、フクシマではなくてヒロシマについての文学を講義で使いました。原民喜の『夏の花』です。原爆が落ちた瞬間の描写が鮮やかにでてきます。大きな出来事が起きたばかりの時は強いイメージが出てきます。たとえば、『黒い雨』がそうです。そのときそこにいた人々は何が起きたのか、わからない。死体をたくさん見て、新しい爆弾がどんなに危険か、なにもわからなかった。そこから時間が経つと他の人が同じことについて他の言葉で書きだします。『夏の花』と『黒い雨』の原爆の記憶自体はそれほど違わないです。しかし大江健三郎は、後の世代だったので別の見方を表現しました。
今のウクライナでは戦争についての文学がたくさん出ていますが、まだ一番初めの戦争体験の文学です。後の世代はより深い理解と解釈、細かい感情が現れた新しい文学をつくっていくと思います。今はその途中です。ウクライナでは出版社は戦争の本のキャンペーンをしていますが、読者は「戦争の本は読みたくない」と思っています。現実で体験していることを本で読むのは辛いことです。もちろん、現時点で本にすることは必要です。それらが英語に翻訳されて世界文学として外国の人に読まれることはあるでしょう。しかし、それはウクライナ人のための文学ではない。ウクライナ人は読むことができないのです。時間と距離が経ってから新しい文学がでてくるといいと思います。
(論文が楽しみです)
永遠にかかりそうです。わたしは読むのも書くのもすごく遅いです。笑

わたしは詩が好きで自分でも書きます。とくに短編小説のような短いテキストをよく読みますし書いています。作家では多和田葉子が書く散文詩ような文章がとても好きです。多和田葉子は日本語だけではなくドイツ語でも書きます。エクソフォニーです。

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*エクソフォニー:「母語の外に出た状態一般を指す」
多和田葉子『エクソフォニーー母語の外へ出る旅』より

わたしも今は日本語で書く経験をしていますから、このエクソフォニーの経験をしています。どうやって自分の考えを外国語で表すのかということに興味があります。多和田葉子のような翻訳できそうな、できなさそうな言葉が好きです。
梶井基次郎の『檸檬』も大好きです。とても詩的な文章だと思います。ウクライナの大学で教えていたときに教材として使いました。ほかに授業でつかったのは川端康成です。日本に来てからは、『心中』を仙台文学館館長の佐伯一麦さんの講座で読みました。佐伯さんの「エッセイを読む、書く」講座にも参加していて3年通っています。毎年エッセイを三篇提出しています。ここにあるエッセイ集は受講生の作品のなかから佐伯さんが選んだ作品がまとめられています。わたしの作品も二篇載っています。今年度の号にも掲載されるそうです。日本語で書くのはそんな難しくないです。アイデアがたくさんあるのでそれを書いています。もともと書くスキルがありますから、それを日本語に置き換えればいいので。ただ、ときどき日本語に負けます。言葉の微妙なニュアンスなどの違いを選択するのが難しいと思います。
ウクライナにいるときはいつも詩を書いていました。けれど、日本に来てからは詩が書けなくなりました。詩だけでなくウクライナ語で書くことができなくなりました。誰に向けて書くのか、読む人がいるのかという感じです。今わたしは日本にいて、ウクライナ人としてウクライナ語でなにが言えるのか、わからなくなりました。私のような戦争から逃げた人が戦争のなかにいる人に何が言えるのかわからないのです。もちろん、書きたいと思いますが。ウクライナ語では書けなくなったので、できるだけ日本語や英語で書くことにしました。

今年の夏、3年ぶりにウクライナに帰りました。すると日本へ戻ってきてから詩が書けました。その二篇の詩をウクライナの文芸コンテストに送りました。クリミアに関することがテーマです。審査結果の発表はまだですが、もしかして日本で書いた詩が載るかもしれません。載らないかもしれませんが。笑
わたしが書いた詩は昔住んでいたクリミアの思い出や住んでいた家のことがでてきます。戦争はぜんぜん関係ありません。海とクリミア半島に咲く花などが、でてきます。

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