not major, but ... GOOD PUBLISHERS @ 書本&cafe magellan

「どちらの出版社も、それぞれの分野において目覚ましい成果を世に送り出しつづけています。そして、その中には思いのほか仙台にゆかりある作品も含まれています。今回はそのご縁を軸に各社の本をご紹介できればと思います。

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赤々舎

「いい作品を出したい」。その思いに駆られ、姫野希美さんはたった二人で赤々舎を立ち上げます。40歳を目前にした2006年のことです。それからたった5年で、写真集を計60冊も刊行、うち4名がその著作を高く評価されて木村伊兵衛賞を受けています。手がけるのは「徹底的にほれ込ん」だ写真だけ。利潤や潮流などいかなる外的規準も頼りにせず、写真家と向き合い、粘り強く交際し、写真をひたすら玩味すること。出版の判断が訪れるのは、その過程をおいて他にありません。志賀理江子さんも、そうして見出された写真家のおひとりです。十数年前に出会い、やがて仙台ほか諸外国で撮り溜めた写真を、2007年『CANARY』にまとめて赤々舎から上梓なさったのです。これが翌年、木村伊兵衛賞に輝きます。

『カナリア門』では、その『CANARY』所収のプリントを再撮影し、小さなサイズで標本のように貼り込んでいます。それが律儀に終始見開き右頁にあしらわれ、対する左頁には多様なテクストが刷られています。撮影の経緯や写真家の思考、あるいは他文献からの引用が、色調に微妙な遷移を施されたフォントで綴られているのです。

両者は独立したセリーを形成しています。冒頭でも告げられていたとおり、言葉はイメージを、写真とは「別の角度」から照らすためにこそ採用されているのです。したがって、テクストが写真に解説や情緒を加えることは決してありません。あくまで、写真に映しとられたイメージを、写真家の経験や知見を通して辿りなおすばかりです。いっぽう撮りなおされた写真も同様に、撮影を通してイメージに触れなおすプロセスになっています。語り、見なおす過程において、その度イメージと遭遇しなおすこと。写真や言葉へのフェティシズムを振り切り、本書は一貫してイメージの探究に捧げられています。そして、それを読み、見なおす読者もまた、誌面を左右に行きつ戻りつ、いつしかイメージとの遭遇に巻き込まれずにはいられないでしょう。

なお、2009年から写真家は名取市北釜へ移住し、当地を拠点に活動を継続。2011年「アートみやぎ」に選抜され、宮城県美術館で展示をしました。

他方『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』も同じく、おおよそ左右に写真とテクストを配した構成になっています。しかし取り組まれている問題は全く異なります。1994年にルワンダで起こった同胞による大量虐殺(100日間で80万人)、とりわけその渦中に性的暴力を被った女性の存在(推定50万人)、この一点に焦点が絞られているのです。暴力によるトラウマはいうに及ばず、結果生まれた子ども(約2万人)を育てることの困難たるや想像を絶します。肉親を殺した男性の血を引くわが子。それは、母親を複雑な葛藤に追いやらずにはいません。なおかつ社会から迫害までされているのです。そして、その大半がHIV/エイズに感染していると言われています。

 写真家は、こうした境遇にある母子30組をインタビューし、写真に収めています。光を加減して被写界深度を浅くとり、肖像はみな浮彫りのように背景からせり出すよう撮られています。劇的な効果が厳粛に避けられ、肖像の強さだけが露呈するよう、慎重な配慮が伺えます。この強さが、紙面にならぶ証言の衝撃と交差し、濃密な緊張を生みだしてやみません。

  • 『カナリア門』(志賀理江子 2009)
  • 『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』(ジョナサン・トーゴヴニク 2010)

思潮社

いわずと知れた、現代詩専門の出版社です。1956年に、小田久郎が机ひとつで創業。先達の昭森社・森谷均と書肆ユリイカ・伊達得夫から叱咤激励を受け「最初から売れるとわかっているものは出版しない。まだ評価されていないものを評価づけしよう」と取り組んできたといいます。その矜持の成果のひとつが、1968年から20余年をかけて100巻に達した『現代詩文庫』でした。今も、続編と近代詩人編とに分かれて継続されています。

『尾形亀之助詩集』もそのうちの一巻です。周知のとおり、詩人は1900年、県下大河原町に生まれました。仙台と東京を行き来した果て、37歳で仙台市役所に就職。その6年後、誰にも看取られないまま衰弱死します。当初から、詩人が世間に溶け込むことはありませんでした。どの詩も、一枚隔てたようなよそよそしさを常に抱えています。それが最終的には、自己までをも併呑し、世間との対峙はおろか、親密さと疎遠さの区別すら失効するに至ります。

生前最後の詩集『障子のある家』は、一切を放下したかのように、清々しいまでの受動性に貫かれています。意志や意欲の欠片はもはやどこにも見当たりません。「顔を洗らわずにしまつた」り「リンに頭をぶつけた」り、自身のことなのに過去完了ばかりが繁茂し始め、あげく詩人のことを「書く人ではなくそれを読む人」にすべきだとまで書きつけるのです。それどころか、娘と息子に向けた後記では、大人になるにあたって、性転換を勧め、親子関係もなし崩しにしてしまうのが望ましいと優しく諭しています。この天衣無縫な、自我の突き抜け方には哄笑を誘われずにはいられません。

『新国誠一 works 1952-1977』およそ2年ほど前、国立国際美術館にて詩人の回顧展が開かれました。本書はそのカタログに当ります。

1925年に仙台市で誕生。以来、仙台で詩作に励みますが、周囲の無理解に見切りをつけて37歳で上京します。その後は日本に留まらず、ブラジルやフランスの詩人とも交流し、海外でも活躍しました。具体詩とも呼ばれる、活字を組み合わせた視覚に訴える詩を制作し、1960年代の国際的な前衛詩運動の最前線において、日本を主導したのです。

例えば、処女詩集『0音』所収の「子どもの城」では、サイズの異なる活字が紙面上、向きや勾配も様々に星のように鏤められています。指示対象や連辞構造を一旦漂白し、その形象が喚起する純粋な観念だけを活字は明滅させるのです。そして、目を落すたび特異な星座を切り結ぶことになります。タイポグラフィックなデザインに堕しかねないそのエッジで、詩人は確かにポエジーを手放しません。活字の配列から詩が生まれる瞬間は、どれも本当にスリリングです。

なお、詩人は、視覚のみならず、音声においても詩を即物的に立ち上げようとしました。本人の朗読が付属CDに収録されています。

  • 『尾形亀之助詩集 現代詩文庫』(1975)
  • 『新国誠一 works 1952-1977』(2008)

洛北出版

僕が学生だったころだから、90年代後半。松籟社という京都の出版社から魅力的な人文書が立て続けに刊行されました。『ノマドのユートピア』(ルネ・シェレール)『声の分割』(ジャン=リュック・ナンシー)『構成的権力』(アントニオ・ネグリ)等々。やがて、それらが一人の編集者の手によることを知ったときは驚きました。お名前は竹中尚史さん。その彼がいま営んでいるのが洛北出版です。

『汝の敵を愛せ』はその第一弾でした。竹中さん曰く「いちばん売るのが難しい本」にも拘らず「リンギスの思想に惚れ」てしまったから選んだのだそうです(赤々舎の姫野さん同様、ご自分の欲望に断固譲歩しないその姿勢にはとても勇気の湧く思いがします)。

イースター島やチベット、あるいは仙台等々。リンギスは世界各地を旅し、長期にわたって滞在、その経験から多くのエッセイをものしています。しかし、異国情緒を外から観察するだけには終わりません。かといって、現地に同化することが目的では尚更ないでしょう。むしろ彼は、実際に見、触れ、味わい、触発され変容する自身の情動をこそ書き留めてゆきます。したがって、情動がいついかなる場所でも触発されうるとすれば、必ずしも遠方へ赴かずとも構いません。

「オウムは(中略)綿羽の生えた柔らかいところを愛撫してもらおうと、首を伸ばし、羽を広げる。オウムと一緒にいると幼児は、自分の手が単なる物をつかむための伸縮可能な鉤型の突起ではなく、喜びを与えるための器官でもあることを発見する」。オウムと幼児は互いに触発され合い、刻々と変容しつつあります。これをまなざすリンギスも変容に同調し、情動を掻き立てられずにはいられません。そして、その記述を追いかける読者もまた触発されつつあることに思い至るのです。

なお、リンギスは現役の哲学者であり、メルロ=ポンティやレヴィナスの英訳も手がけています。

いっぽう『支配なき公共性』は極めて緻密な学術論文です。『汝の敵を愛せ』とは対蹠的な外見かもしれません。ところが、哲学や文学のテクストを読み込むその手際は、ほとんどオウムと幼児が戯れ合うかのような官能性を湛えています。手前勝手な解釈で片づけることなく、あくまでテクストに寄りそい、触発し合い、それが語るがままに任せて一義的な読みから開放するのです。

例えば、カントの崇高論を扱った一文があります。ひとつの典型として、崇高さを人間の有限性の彼方に見る立場があります。彼らは、彼方にある呈示不可能なはずのものを、まさしく「不可能なもの」として逆接的に呈示し、それを崇高さに結びつけます。つまり弁証法的に、不可能性を可能性の領域に再回収してしまうわけです。カントをこう読むことはあながち間違いではありません。しかし、丁寧に読み解くうち、そこに収まりきらない崇高概念があらわにされます。カントからの引用です。「ピラミッドの大きさから十分な感動を得るためには、ピラミッドにあまり近寄りすぎてはならないし、同様にあまり遠ざかってはならない」。著者はここに、もうひとつの崇高の所在を嗅ぎとります。彼方と此方の狭間、境界にこそ崇高さが宿るのではないか。どちらにも振り切れないまま、うち震えながらこの限界に接する経験こそが崇高なのです。彼方に見出される崇高は、この限界を振り切った結果えられる効果に過ぎません。じつは、この境界に踏み止まり、一義的な読解に振り切らない姿勢は、著者じしんのスタイルでもありました。

同書の他の論文では、デリダやアレント、あるいはジュネなど、錚々たるテクストが丹念かつ繊細に読み解かれています。なお、著者はかつて東北大学にて教鞭を執っていましたが、2005年に急逝。本書には、それを偲ぶ追悼文集が挟み込まれています。寄稿者は、鵜飼哲さん、熊野純彦さん、宮崎裕助さん、森本浩一さん、山崎冬太さん。

  • 『汝の敵を愛せ』(アルフォンソ・リンギス 2004)
  • 『支配なき公共性』(梅木達郎 2005)